2011年9月17日土曜日

学校で育てられる「生きる力」とは何だろう

子どもたちと一緒に修学旅行へ行ったときのエピソード。家康の墓日光)までの石段の数を数えるのに、1から順番に数えているのがどうも効率が悪くて、もう少し簡単に数える方法は考えられないのかなと話してみました。なぜ効率が悪いかと言えば、段数を数え上げていく中で全ての位の数を読まなければならないルールにすると、何らかの理由で途中で止まってしまったとき、はじめから数え直さなければならなくなってしまったり、階段を登ったり降りたりしながらテンポよく数えようと思っても、数の読み方が必ずしもテンポが良いわけではない(数字の読み方をローマ字にするとよくわかります)ためにつまずいてしまったりするからです。

そこで、例えば1〜10まで数えて指を折り、また1〜10まで数えて次の指を折るような数え方をしてみたらどうだろうかと問うと、指を折る方が面倒だというのです。私が提案した方法を分析的に捉え直すと、口は一の位、右手は十の位、左手は百の位を表すというような考えでした。(もちろん、子どもたちにはこんな難しい言い方ではなく、実演しながら説明しました)

このことから、子どもたちの「数感覚」が見えてきました。子どもたち(たとえ6年生であっても)にとって、数とは1から順に並んだ(順序数的な理解)ものであり、十進数の肝である「10ずつ束にする」という捉え方はできていたとしても、それは決して彼らの自然な理解ではないのだということです。わかっていても使えないのなら、わかっている価値がない。数を束で捉えられるような学習機会(あるいは学習場面)を工夫していかなければならないなぁと感じました。

一方で、このエピソードから学習自体を忌避する傾向の根強さも感じました。自分が今までやってきた方法ではないやり方に対して、やってみようとする態度よりも拒絶する態度の方が強いのです。これは、自分自身が有能であることを信じようとする心理的な働きであろうとは思いますが、このことが学習を阻害し、学習したことを生かす力(生きる力)を育てることにマイナスに働くのだとしたら、とても皮肉なものだなぁと感じました。(養老先生が「バカの壁」で言おうとしたのは、こういうことなのかも知れないと思いました)

学校で育てられる「生きる力」とは一体どういうものなのだろうかと考えさせられました。

2011年9月10日土曜日

尊敬する人は「親」で本当にいいの?

最近、子どもたちに「尊敬する人は?」と聞くと、「(自分の)親」と答える子が多いのが気になっています。私の子どもには、私のような取るに足らない人間を目標にしてもらいたくない。親など乗り越えて、立派に成長してもらいたい。そう願っているからです。

幼い頃の子どもたちのあこがれは、仮面ライダーや戦隊ヒーロー、アイドルやスポーツ選手など、テレビに出ている人であることが多いと思います。幼いながら、その「人物(キャラクター)」に憧れを抱くのだろうと思います。あるいは、幼稚園や保育園の先生など、身近にいて親ではないのに自分の世話をしてくれる人(世話になっている意識がないということはあると思いますが…)に憧れる場合もあるでしょう。しかし、成長するに連れて、将来の夢は職業になり、その職業に就いている人物に憧れるものの、生き方としての目標は、身近にいる「親」ということになってきます。そこには既に「大志を抱く」というような感覚はなく、今の自分から考えて「自分の親くらいが妥当」というような感覚が見え隠れします。

また、本気で自分の親を尊敬し、憧れていると言う子どもたちの中には、「では、その生き様やその人生を決めた出来事を知っているか」と問うと、「詳しくは知らない」と答えることが多く、人の生き様を知りたいという感覚もないという場合があります。ただ、「いつも優しい」「兄弟や友だちみたいに接してくれる」「私の言うことをよく聞いてくれる」と。そこに、生き様に関わる何かが含まれていないとは言いませんが、その程度で「尊敬」していると言い、自分の人生の目標としてしまって良いものだろうかと疑問に感じます。

こうしたことからも、先達の生き様を学ぶことは、とても重要なことだと思います。幼い頃からさまざまな人物の生き方や哲学を学ぶことは、その子の人生に大きな影響をあたえることだと思います。今の子どもたちの中にも、歴史的な人物に関心が高い子がいるのは少々救われる気がしますが、その人物が何をしたのかということよりも、どういう哲学を持って生きたかということに関心を持って欲しいと思います。当然のことながら、時代が違う現代にあって全く同じことはできませんが、その哲学を今の自分に生かせる人に育って欲しいと願っています。(だから、歴史的な人物を漫画のキャラクターのように顔立ちや見た目だけ取り上げるようなやり方には、強い違和感があります。過去の人物を現代風に「翻訳」するなら、福田恆存氏がイギリスの古典文学であるシェークスピアを翻訳した時のような慎重さが必要だと思います)

人が生きる上で最も重要なのが「生き方」を知り、「哲学」を持つことなのだと思います。それは、幼い子どもでも同じです。それがなければ、何のために生き、何のために学んでいるかわからないし、真の喜びや楽しみもわからないと思います。そして、自分の口で「こういう人物になりたい」と言える人へと成長して欲しいと思っています。