2011年8月21日日曜日

☆(Star)Board Orangeを組み立ててみました

mbed(詳しくは「mbedを始めましょう!」を参照)用評価ベースボードとして開発された、☆(Star)Board Orange(以下「☆Board」)というのがあります。これは、私も先日購入して使い始めたmbedを載せて様々な実験をすることができる評価ベースボードです。今回は、スイッチサイエンスで「☆Board Orange 単体基板」を購入しました。同完成基板もあるのですが、部品リスト(PDFです)を見ながら自宅の部品箱の中を確かめると、あるものが多かったので、足りない部品だけを買い揃えて作ってみることにしたのでした。

組み立て方法は、「ハンダ付けステップバイステップ」のページを参考にしました。表面実装部品のmicroSDカードコネクタは既についていましたので、その先からスタートでした。部品リストには、秋月の商品番号が書かれていたので、足りなかった部品はそれを参考に買い足しました。部品点数もそれほど多くなかったので、ハンダ付け作業はだいたい2時間程度で、無事に☆Boardが完成しました。

動作確認のために、「mbed評価用ベースボード」のページにある「4.評価済み Cookbook サンプルプログラム」を参考にして、サンプルプログラムを動かしてみました。ちょっと難関だったのは、ジャンパの設定でした。一応、以下のように書かれているのですが、LCDのデータシートと合わせて確認しなければなりません。(写真も若干あてにならない)

ジャンパ説明上側選択下側選択
J1 LCDモジュールの電源電圧を選択します。+3.3V+5V
J2LCDモジュールの2番ピン機能を選択します。J1で選択した電源電圧を供給。グランドに接続。
J3LCDモジュールの1番ピン機能を選択します。J1で選択した電源電圧を供給。グランドに接続。
J4 LCDモジュールのコントラストピンに対する設定です。-2Vを供給。グランドに接続。
J5LCDモジュールのR/W-ピンに対する設定です。R/W-ピンをmbedに接続。R/W-ピンをグランドに接続。

「上側・下側」というのは、mbedを下方向、LCDを上方向に置いた時の上下関係を意味しています。ジャンパの設定については、基板上にもシルクでそれらしきことが書いてありますので参考になります。私の設定は、以下の通りです。

  • J1…+5V
  • J2…2番ピンGND
  • J3…1番ピンVdd
  • J4…-2V
  • J5…GND

はじめは、なぜかうまく動かなかったのですが、mbedを抜いたり挿したりしながら、何度かコンパイルし直してプログラムファイルを入れ替えたりしているうちに、無事に表示するようになりました。(もしかすると、半固定抵抗の設定が間違えていただけだったのかも…)

動かしたサンプルプログラムは、次の通りです。

#include "mbed.h"
#include "TextLCD.h"
TextLCD lcd(p24, p26, p27, p28, p29, p30); // rs, e, d0-d3
int main() {
lcd.printf("Hello World!\n");
}

「TextLCD.h」は、mbedのWebサイトから「Compiler」に入り(ログインが必要)、「Import」を選択して「Libraries」の中から「TextLCD」を探して入れました。いろいろと試行錯誤したおかげで、mbed Compilerの使い方もだいぶ覚えました。☆Boardは、かなり便利な評価ベースボードだということがわかってきました。これから時間を見つけて試用していきたいと思います。

2011年8月12日金曜日

古い文献に学ぶ

思いがけない方から、40年近く前に出版された本を頂きました。私が算数の研究をしていることを知って、「退職して要らなくなったから」と頂いたものです。そこに著者として名を連ねているのは、今も算数数学教育界の重鎮としてご活躍の先生方や既に伝説となっている先生方でした。当然のことながら、この本が私の手元にやって来たこと自体が稀有のこと。まだ、ざっとしか目を通していませんが、研究意欲が湧いてきています。

中でも目を引いたのが「発見学習」について書かれた一冊でした。ときは現代化の時代。算数数学教育に関する研究も盛んに行われたらしく、今でも有名な研究者が次々と引用されていました。著者は、行政のお立場でこれだけの研究をなさり、かつ本まで出版されるとは並々ならぬご苦労があっただろうと思います。一方で、それを許した時代的な背景を考えると、「いい時代だったんだなぁ」としみじみ思えてきます。

内容としては、今、言われているところの「問題解決学習」に近いのですが、「発見」と言うだけあって、子どもたちに数学的な原理を発見させることを目的とした学習スタイルが提示されています。驚いたことは、既に数学的表現として「式、図、表」を相互に表し直すというようなことが書かれていたことです。そして、話し合い活動も含まれています。今、世に出しても、古いとは言えないなぁと感じながら読んでいます。

これをきっかけに、私の手元にあった古い本や古い本の覆刻本を引っ張り出して読み始めました。時代は様々ですが、普遍的な課題がそこにある気がしています。今でも変わらない「学級経営のツボ」やその昔に提唱されていた「文章問題の系統性」について実践的に論じられている本もあり、まだまだ勉強すべきことはたくさんあるなぁと改めて感じました。

今、学校教育に足りないのは、「子どもの思考への理解」ではないかと感じています。子どもたちが考えていることを理解するのだけでなく、子どもとはこう考えるものであるということを理解するのです。そういうところから授業を作っていくような実践が必要だと思っています。
#本当は、教育課程自体も子どもの思考に添う内容と過程にする必要があると思っていますが、その話は後日に譲ることにして。

現場の一教員である私が、様々な研究をするには自ずから限界があります。同じ立場の教員に、「研究に没頭しろ」とは言えないと思いますし、「一緒にやろう」と言うのも難しい。しかし、ここは手を抜くところじゃないと思っていますし、これができないなら、他の仕事を削るべきだと思っています。

2011年8月8日月曜日

私を動かしてきたもの

自分の仕事の進捗を確認しながら、このところ、あまりの仕事の多さに自分を振り返れていないなぁとちょっと反省。年齢を重ねてやりたい仕事よりもやらねばならぬ仕事が多くなり、その責任も重くなってきたことが原因なのですが、他の先生たちよりもやりたいと思うことが多いというのも事実かもしれないです。

8月に入り、あることがきっかけで、自分の教育観を見直す作業をしています。経験年数だけは毎年重なっていくのですが、自分の中でモヤモヤした気持ちはどんどん増すばかり。このモヤモヤ感の原因は一体何なのか考えてみましたが、ふと、自分が教師になろうと思った頃のことを思い出しました。

私を学校教育界に向かわせたのは、端的に言うと「怒り」でした。穏やかな言い方をすれば「このままではいけないという問題意識」とでも言いましょうか。学習者の立場で考えても、学校教育には矛盾がいっぱいあることがわかったし、常に受動的で本当に学びたいことが学べないし、何も考えずに生きるなら楽なのに、何かを変えようとすると途端にいくつもの壁が立ちふさがるし。およそ「人を育てる場」になっていない学校の姿に怒りを感じたのが最大の理由でした。
#もちろん、採用試験の時はそんなこと言いませんでしたよ。(^_^;;;

当時から、そのすべてが先生のせいだとは思っていませんでした。良い先生にはたくさん巡り会えたし、そういう先生方から学んだことは、今でもとても貴重なものだと思っています。問題は、日本の学校教育システムそのものにあるのだと思います。しかし、私にはそれを変えるほどの力などあるはずもなく、せめて目の前に居る子どもたちにだけは、現状のシステム下でもできる理想的な学習場を提供したいと考えて教員になったのでした。

その意味で、はじめから孤独だったし、自らストイックに学び続けることを目指し、様々なチャレンジをしてきました。問題意識から行政にも働きかけたり、行政の仕事もお手伝いしたりしました。そんな中で、少しずつ見えてきた学校教育システムが抱えるがんじがらめの現状。こんな中で正気でいられること自体が不思議でならない。その昔、高校生だった頃に考えていた、「何も考えずに生きるなら楽なのに…」という記憶が頭をよぎります。先生たちも、矛盾だらけの学校システムの中で、受動的な研修や事務仕事に時間を潰され、問題意識を持っていたとしても、多くの壁に阻まれて結局何一つ変えることが出来なかったのだなぁと。

今から30年前に書かれた本の中に、親の理不尽要求にさらされる学校の現状や学習者の怠惰な状況に対する警鐘のようなものを発見して、30年もの長きにわたって何一つ変えることが出来なかった学校教育の問題が一層はっきりしてきました。今、学校教育の業界内で信じられている、あるいは、指導されていることの一つ一つを「本当にそうなのか?それでいいのか?」と批判的な目で見直す必要があると思います。

先生や学校は責任ばかりを追求されて、保護されるシステムが存在しないのもおかしい。子どもたちの知的好奇心に揺さぶりをかけるような学習環境にしたいのに、金も人も時間も足りない現状を打開しないといけない。無駄な会議、無駄な報告書、無駄な取り組み、無駄な配布物、無駄な…etcを徹底的に排除して、学校現場では最低限何を優先すべきなのかをはっきりさせることが重要だと思います。
#それを保護者も地域も理解すべき。先生は、スーパーマンじゃないし機械やロボットでもない。24時間365日フル稼働が当たり前という意識を変えていただきたい。
#きっと「そんな風には思っていない」って言うんだろうけど、じゃあ、先生に要求される仕事を時系列で整理してみたら、どれだけになるか調べたことあるの?って聞いてみたい。文句が出ないように、全部やることにしたら更に死人が増えるよ。「先生たちが危ない」って役所や議員に抗議しに行く人って皆無だよね。
#究極的に、自分は誰からも(法律からも)守ってもらえない存在だということがわかっているから、自分で自分を守るしかない。だからどこかで手を抜くことを考えちゃう先生が多い。子どもたちを理解するために児童心理を学び、子どもたちの行動を観察・記録したり、自主的に研究会に参加して先輩たちの経験から学んだり、教科書や学習内容についての研究をして、よりよい教材・教具や指導方法を研究したりすることが大事なんだけど、そういうところで手を抜く。
#これじゃぁ何のために先生をやっているんだかわからないよね。授業力が身につかないから、結局子どもたちにも力がつかない。悪循環だよね。無駄仕事が多すぎるから、サボっていてもわかりにくいって知ってます?やるべきことがはっきりしていたら、むしろサボれないのに。
#世間では「学校不信」なんて言うけど、先生たちの「学校教育システム不信」についても考えなければいけないと思う。

立場や肩書きなどどうでもいい。子どもたちを目の前にしたら、そんなものは何の役にも立たない。怒りの炎が青く熱く燃えてきたぞ。

2011年8月6日土曜日

教員研修のあり方を探る (2)

前回の続きですが、今回は校外の研修について考えていることを書いてみたいと思います。

2.校外研究会のスタイルを見直す
学校を離れてまで研修をしたいという先生たちは、それなりに意識が高いと考えて間違いないでしょう。だとすると、研修のレベルも校内研修レベルでは話になりません。具体的に言うと、ベテランの先生たちから「授業づくりの知恵」を学ぶようなレベルの研修をやっていたのでは、校外で研究会を行う意味が無いと思うのです。日常の仕事の中や学校の先生たちからでは学べないような、より専門性の高い知識や技能を身につけるような研修を行う必要があると思います。

そのためには、まず一人一人が研究の仕方を身につける必要があると思うのです。みんな忙しいですから、即効性があって、明日からでも使えるような指導方法を知りたいと思いがちです。しかし、それでは根本的な解決にはなりません。実践的な内容の研究をする前に、子どもとはいかなるものなのか、彼らの思考や発想にはどんな特徴があり、私たち大人とどこが似ていてどこが違うのかなどというような、基礎的な研究からやっていかなければなりません。大学では、子どもたちに接していない状態で「さわり」程度のことを学習しているでしょうが、教員になったのだから、まさに目の前に良い教材がいてくれるわけです。言い方は悪いかも知れませんが、活用させていただかない手はありません。じっくり子どもたちと向き合って、彼らの思考を読み解くところから始めてみましょう。そして、国内外の様々な研究成果と照らし合わせて、子どもたちを理解していくことが大切だと思います。

そのためには、児童心理学などの論文を教材として、輪読会のようなものを開催しても良いと思います。同じ教材をみんなで読み合えば、お互いの読み取りの違いもわかって、より深く学ぶことができるでしょう。教科指導の「教えたい内容」を全面的に押し出して、教材の研究や指導方法の研究から始めるなんてやめて欲しい。まずは子どもたちを理解することに努めることが先決だと思います。
#ただし、これは子どもたちにおもねることを意味していないのでご注意を。

こうしたことを土台として、学習指導要領やその解説、教科書の研究などを経て教材の研究や指導方法の研究へと進めていかなければならないのだと思います。スタートがしっかりしていると、ものの見え方もだいぶ違います。経験だけでものを言う人の嘘を見抜くことができるようになります。もちろん、経験の中から学べることが多いのは間違いありません。しかし、校外でも研修しようというのなら、経験だけでは片手落ちすぎると思います。子どもたちへの深い理解と、理論と実践をしっかりと結びつけた研修にして欲しいと思っています。

さて、いつどこで提案しようかなぁ…。

教員研修のあり方を探る (1)

大量退職時代の到来で、教員の世代交代が激しくなっています。高齢化していると言われていた学校現場が、一気に若い先生たちで溢れているようなところもあります。そうした中で、若い先生たちを育てる仕組みを再構築していく必要を感じています。

その昔、自分が小学生だった頃の先生たちはみな若くて、志のある人たちは、教材や指導方法を研究するサークルや勉強会などに参加して研修を積んでいました。そうしたものは今でも各地に残ってはいるのですが、形骸化していて若い先生たちを取り込む求心力を失っていたり、レベルが高すぎて若い先生たちのニーズに応えられなかったりして、あてにはならない状況があります。そこで、これから2回に分けて校内と校外でこんなことができたらいいなぁと思うことを書き留めておきたいと思います。もとより、構想の段階なので実現できるレベルのものかはわかりませんが…。

1.校内でのニッチな研修
教員になって驚くのはその忙しさです。それこそ、教材を研究している暇もない。先輩の先生たちを捕まえてじっくり話をすることもままならない。どうしようもなく悩んでいることは相談できても、本当に大事なのは、日常的な細かなこと。例えば、発問の仕方や黒板の書き方、指名の仕方や授業規律などなど、知らなければならないことはたくさんあります。それを、「マニュアル本」やら初任者研修に頼ることにしたとしても、1年間で学びきれるものではないし、適時性を考えると、職場の先生たちが互助的に研修し合えるのが理想的だと思います。

「だから校内研修を充実させて…」という話ではありません。校内研修は、いわば公の研修。相応のレベルを必要としますし、若い先生たちの個別のニーズに対応するのが目的ではありません。そこで、若い先生たちの資質向上を目的とした「校内サークル」のようなものを作ってみてはどうかと思っているのです。

よく若い先生たちが、連れ立って飲みに行くようなことを聞きます。お互いに仲良くしながら、先輩たちがいないところで同じような立場で悩みを聴き合うというのも大切なことです。しかし、ともするとお互いの傷を舐めあうだけで、答えの出ない堂々巡り。酒のんで鬱憤晴らしをするだけになってしまうこともあるでしょう。だとしたら、もう少し有意義な活動を考えてみてはどうでしょうか。酒席ではなく、勤務時間外を利用して、校内講師(ベテランの先生)を囲んでお互いの実践や今困っていることなどを、一人ずつ話すようなことをやってみると良いのではないかと思っているのです。
#一人A4用紙1枚(文字数行数自由)のレポート持参みたいな形で。

講師も毎回出られる人もいれば、ある時だけ特別に頼む場合があっても良いと思います。会の運営については、若い先生たちが自治的に行うとしても、全教職員に周知して、管理職の後ろ盾も頂いて、学校全体で協力・支援するような形にすることが理想的だと思います。時間外だから強制することはやめて、学校が使えなければ近所の公民館を借りてもいい。こんなことを月1回ずつでもできたら、若い先生たちも力がつくし、なかなか学校外の研修に出られない人でも参加できて良いと思っています。

さて、いつどこで提案しようかなぁ…。

2011年8月5日金曜日

面積の求め方の落とし穴

平面図形の図形としての最小単位は三角形です。(ニ角形というのはないからです)でも、面積の導入は、長方形や正方形の面積です。それはなぜか。答えは簡単です。面積の学習は図形の学習とは違うからです。算数で言うと「量と測定」という領域になります。(「図形」領域ではないのです)

「面積を求める」というのは単位正方形(1cm²、1m²、1km²…etc)がいくつあるかを数える作業です。例えば1cm²は1辺が1cmの正方形と考えてください。これを、広さをはかる尺度にしようと決めたのです。長さの単位を使って、広さの単位を作り出したわけです。でも、そもそも長さと広さには、優位な相関性はありません。周りの長さが同じでも、面積は必ずしも同じではないからです。ところが、このことが子どもたちを混乱させる原因となります。

私たちが何かを「測る」とき、それは必ずしも見やすい形で表されるとは限りません。そこで人々は、わかりやすい尺度に変換して測りやすくする方法を考え出しました。温度計も時計の文字盤も、それぞれ温度と時間を長さに変換して測る道具です。そう考えると、長さに変換して測るパターンが多いことに気付かされます。バネばかりや上皿ばかり、雨量計なんかもみんな長さに変換しています。つまり、長さというのはヒトにとって、とてもわかりやすいものだと言うことができるのです。

すると、面積を求める学習で、長方形の面積は「縦(の長さ)×横(の長さ)」で求められるということを早くから前面に出しすぎてしまうと、子どもたちは「長さ」の方にばかり目が行ってしまって、肝心の「単位正方形を数える」ということを忘れてしまうのです。だから、いろいろな形の広さを調べさせようとすると、一生懸命周りの長さを測って、その長さで比べようとしてしまう子どもが出ます。複合図形に対しても、長方形や正方形が見えてこないと求積をあきらめてしまったり、闇雲に長さを測って適当にかけ算するという子どもたちが現れてしまうのです。

確かに、「縦×横」を定着させると、早くスムーズに面積を求めることができます。また、小数や分数になった場合でも簡単に求積できますのでとても便利です。そのためか、先生たちの中には、「いつまでも単位正方形を数えさせていないで、早く長さに着目させなくてはならない」と思い込んでいる人もいます。でも、肝心なことを忘れさせてしまうのなら、本末転倒と言わざるを得ません。求積公式は、あくまで「単位正方形を数える方法」に過ぎなくて、常に単位正方形を数えている感覚を、面(広さ)を見ることを忘れさせないようにすることが大切なのだと思います。

さらに詳しい面積の話は、図形の等積変形が可能だったり、倍積変形して半分にすればもとに戻ったり、限りなく薄くスライスしてずらすことができたり、…など、図形の操作に関することと同時に身につけていけば良いのだろうと思います。いつかは単位正方形も固定的なものではないことに気づかせなければなりませんが、あわてる必要はないと思います。

2011年8月4日木曜日

数と量、数字の話

小学校の算数では、「量(りょう)」のイメージを使って「数(すう)」の概念を獲得させます。りんごとか、みかんとかいろいろなもののかずを数えて数とは何かを構成させるわけです。でも、そもそも数と量は別物です。象5頭とマッチ棒3本をたし算することにはあまり意味はないでしょうが、「5+3」はできます。量を使って数を理解させたとしても、量と数は同じものではないのです。

そして最も厄介なのが「数」と「数字」の違いです。数の概念に対して、それを数字という記号で表すことは、とても優れた発明ではありますが、お互いが不可分であると考えてしまうと、無用な混乱を生む原因となることもあります。つまり「1」という記号を使って「いち(一)」を表すことに必然性はないのです。このことは、教える側がしっかりと理解していなければならないことだと思います。

そんな中で、こんな表現を見つけました。







2 6

図1

んっ!?何かおかしい。□は、低学年で使うブロックのイメージです。一番上の位の表記がなければ、「2」と「6」であって「26」ではない。子どもたちもそう考えるでしょう。教科書では、(もう少し間は詰まっていますが)

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図2

と表現するのが一般的です。十の位のブロックが表している「量」は、「数」で言うと「20」です。しかし、十の位には「2」という数字しか書かれていない。十進位取り記数法では、桁によって位を表し、一の位の左隣は十の位ということになっているので、そこに書かれた「2」という数字は「20」を意味し、「二十」と読まなければならないことになってるのです。これを「規約的表現」と言います。平たく言えば「お約束」という訳です。つまり、「26」と書いて「二十六」と読むことには必然性があるわけではなく、約束だからそうしているだけのことで、「206」と書いて「二十六」と読んだって良いわけです。でも、そうすると計算をするときにややこしくなったり、位が増えると0のかずが多くなりすぎてわかりにくいなどという問題があることから、利便性を考えて今の十進位取り記数法がより使いやすいということで普及したにすぎないのです。

だから、十の位に一の位と同じブロックが2つあれば、量として「2」なのですから、数でも「2」として捉えられてしまいます。そこに書かれる数字が「2」だからと言って、量や数までも2にしてはいけないのです。十の位はあくまで「10の束」の個数が数字になっているのだということに注意しておく必要があると思います。これは、□をすべて1円玉に置き換えてみると、簡単に理解できると思います。十の位に1円玉を2枚おいても20円にはなりません。十を表す10円玉が必要になるのです。
#このように、一の位に置くものと十の位に置くものが別のものなら、子どもたちにも理解できると思います。

それを、図1のようにしてしまうのは、具体物を使って「10の束」の考え方を導入(はしごをかける)しておいて、それがわかったから「本当は違ったんだよね」とはしごをはずしていしまうようなものです。 ますます、算数なんて信じられないという状態になり、混乱を煽るだけでしょう。

同様に、お金(札)のイメージで一の位に[ 1 ]のカードが6つ、1/10の位に[0.1]のカードが4つで、「6.4」などと表す場合も、[0.1]のカードは数を表しているのであって、1/10の位に書かれる数字を表してはいません。数字で1/10の位に0.4を書いたとすると、それは「0.04」という数を表します。この場合も[0.1]のカードの個数(枚数)が数字になっているのであって、数は「0.1が4つ」で良いはずです。

ここからは余談ですが、私は、「数が数字のスキンをかぶっている」という理解をしています。つまり、「26」は「2」と「6」が並んでいるのではなく、「二十六」という数が「26」という数字のスキンをかぶっていると考えます。そうすると、数と数字の違いがわかりやすいからですが、これが万人に受け入れられるものとは思っていません。人によっては、数を色で理解している人もいるようですから、理解の仕方も様々なんでしょうね。

大切なのは、「二十六」を「26」と表すお約束なのだということを繰り返し徹底することだと思います。6のバックに0が隠れていることをイメージさせるだけでもだいぶ違います。(そういう教具を作ったことがあります)その方がずっと価値的だと思います。だって、「26」の「2」は「二」ではなく「二十」なのですから。

【追記】そろばんの考え方は、 図1の表現に近いと思います。ただ、そろばんの珠は、桁を離れて移動しませんし、低学年の教科書にそろばんは出てきません。同じ珠が並んでいるようですが、「その位専用の珠」であって、他の位への転用は不可能です。その昔、地面に書いた線に石を並べて計算をしていたというのがそろばんのルーツとされていますが、それがそろばんの形に(つまり「その位専用の珠」に固定された)なったのは、単に持ち運びが便利であるという理由だけにとどまらないと思います。(2011.9.11)